目が覚めてから喉が渇いて仕方ない。ついでに頭も痛い。明らかに二日酔いだった。
家で酒を飲むなんて滅多にない。ただ、昨日はたまたまその滅多にない日で、友人に貰ったワインを張り切って開けた。
しかし飲み慣れていない体がついてこなかったというオチだ。
そういえば共に飲み明かしたご近所さんはちゃんと帰宅したのだろうか。見送った記憶がない。
リビングの扉を開けると、コーヒーの香りが鼻孔を擽った。

「ゼノ……帰ってなかったの?」

コーヒーをすすりながら優雅に雑誌を読んでいるのは、昨夜の客人だった。
先に顔を洗っておいて良かったと安堵している場合でもない。彼がここにいるというのはつまり、私が客人をほったらかして一人のんきにベッドで寝ていたという事に他ならないのだから。

「おはよう。よく眠れたかい?」

笑顔が逆に怖い。何度かゼノが私の部屋を訪ねる時はあれど、日付が変わる頃には帰宅するのが常だった。

「ごめん、私寝る前の記憶が全然なくて……」
「構わないよ。それにこのソファはなかなか寝心地が良かった」

ただのご近所付き合いと言い切ってしまうのはあまりにも淡白だし、友人というのも何故かしっくり来ない。
NASAの職員である偉大な学者先生が、たかだか一般市民の狭い部屋で何をするでもなくくつろいで帰っていく。
考えなくたっておかしな話だ。頭が良すぎる人にこそ難しい事を考えずに済む人間との交流が必要なんだろう。勝手にそう思い黙っていた。
だけど、実はもうわりと限界である。怖がらせてしまうのも良くないと我慢してきたが、そろそろこの人にも大いなる一歩を踏み出してもらいたい。

「君も飲むと良い」

いつまでそこに立っているのかと聞かれて、渋々席についた。
私の分と思われる入れたてのコーヒーが湯気を立てている。

「……あの何か?」

コップに口をつけようにも、真正面からこうジロジロと眺められてはそうもいかない。さっきまで彼に読まれていた雑誌は、テーブルの上に閉じられている。

「ああ、確かめておきたいことがあってね。結論を聞きたいならすぐにでも聞いてもらいたい所だが飲むなら本当に今のうちだよ」

そのまま喋りだしそうなゼノの言葉に甘えて、私はようやくコーヒーにありつけた。
熱い。たぶん、舌を火傷した。

「美味しい。で、結論と言うのは」
「おおよくぞ聞いてくれた!実は昨夜からどうにもおかしくてね。僕がおかしいのか君がおかしいのか君が開けたワインのせいなのかずっと考えていたんだ」
「えっそれ私に関係ある話なの?」
「そうだ。何故か名前、君のことが可愛くて仕方ない」
「…………なんて??」

コーヒーを飲みながらだったら彼に向かって噴き出してるところだ。舌は痛むがコーヒーが熱くて命拾いした。

「昨晩ワインを飲んでいたらどうも酔いが回ってきたのか、君がすごく可愛く見えてね」
「オッケー何度も言わなくていいから」

むず痒い。その中に僅かな違和感。何故か素直に喜べなかった。
彼に人間を可愛く思う心があったのか。はたまた私のことをウサギか小鳥のように思っているのか。
彼の発言の真意が、まだ私には分からない。

「突如湧いてきたこの感情が何に起因するのか!真っ先に考えたのは酒だ、さっきも言ったが当初はそう思った。しかし体の反応を経過観察したところでそこまで酷く酔っていたとも言い難い。だから僕は夜が明けたら、つまり今朝、今まさに君の顔を見て確かめる必要があった」

どうしようこの人朝から凄く喋る。
飲酒しておきながら彼はそんな事を考えつつ自分の体の状況をずっと観察していたというのか。

「それで答えは出たの」
「ああ。どうやら僕は君に恋心というものを抱いている可能性がある」
「そ、そんな他人事みたいに」

何を今更なんて口が滑っても言えやしない。
自分の話なのにどこか浮いている。科学者ってこうなんだろうか。そんな事はないと思いたい。
ゼノは私の心中など露知らず、今世紀最大の発見だ!なんて顔をしてふんぞり返っている。

「えーと今のゼノの話をまとめると……待ってこれ私から言うの恥ずかしいな」
「言ってくれないのか?」

そんな目でお願いされてしまうと断れない。
こういうのを付け入られる隙と言うんだろう。

「まず昨夜一緒に酒を飲んだ女を急に可愛いと思った。が、それは酒のせいではなかった」
「ああそして今朝その女性の顔をもう一度見て僕は、彼女に恋をしているのではないかという仮説を立てた!つまり、」
「つまり」
「一緒に暮らさないか」
「……先生もう少し論理的、あー私にも分かるようお話ししてくださると嬉しいんだけど」

いくらなんでも飛ばしすぎだ。この人絶対計算の途中式を書かずにいきなり答えを書くタイプに違いない。それだと私のような凡庸な人間はついていけないのだ。

「この気持ちの原因が未だ特定できない以上僕は君をくまなく調べる必要がある」
「聞きようによってはサイテーだけどそれまさか口説き文句?」
「本気なんだがね。それに僕はあのソファもかなり気に入ってる」

ソファとはたった一晩寝ただけじゃない!まあかく言う私はそれ以下だけど。
私がイマイチ強く出られないのを分かっているのか、ゼノはペラペラと私が彼の被検体になる事に対する心構えやメリットを述べていく。

「待って待って違うの。い、いきなりそんなこと言われたって私、ゼノが住んでるような部屋の家賃なんか半分も払えないかもよ?」
「一番に出てくるのが家賃の心配ならなんの問題もない、いつでも僕の所に来てくれ。すぐそこじゃあないか」

ダメだ話が全然通じない。彼のなかでは既に結論が出て、次のフェーズに移ろうとしているのだ。
だいたいそんなにソファがお気に召したのなら同じものを買ってしまえば済む話である。私が単純にムリだと断る可能性を数%でも考えたりしないんだろうか。
第一、そんな感情に現を抜かしてる暇なんか彼には有りはしないのに。
仮にだ。もし仮に、私がゼノのもとで暮らすようになったとして、なかなか帰ってこない多忙な彼をただ広いだけの部屋でずっと待つのだろうか。
やっぱり、気持ちが追い付かない。
譲歩したところで、今朝だけで彼の私に対する気持ちを嫌というほど聞かされてしまった以上、取り敢えずルームメイトとしてならとも言いづらい。
一口飲んだきりのコーヒーに映る自分の顔は、明らかに困惑している。

「ではそろそろ失礼するよ。来月の学会の準備に取り掛からなければならないのでね」
「えっ」
「なにか?」
「いや、なにも……」

彼は、私の反応は求めていても、私という人間が意思を持って出す結論自体は別に必要じゃないのだろう。
胸の奥が少し痛むのは決して二日酔いのせいではない。
だって悔しいじゃないか、一方的に言われっぱなしだなんて。

ゼノを見送りに玄関を出て外気を肺に入れると、これから家事をする気力が少しずつ戻ってきた。

「じゃあね」
「また来るよ。君からのイエスが聞けるまではね」
「そう、楽しみにしてる。ゼノ先生が次はどんなアプローチを仕掛けてくるのか」

簡単に首を縦に振るつもりもない。そういうとこカタすぎてめんどくさいと古くからの友人には散々指摘されてきたけど。

「おおそこは是非期待して欲しいものだ。なにせ君でなければ意味がないのだから」

うっかり「では三日間だけなら」なんて口走ってしまいそうな心を叱咤する。
私はまだもう少しだけ、一筋縄ではいかない女でいたいのだ。



2020.11.7 Light my fire


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